『''田螺汁と麦飯』''
田螺汁と麦飯』
夕食を済ませ、大治郎が静臥しているところに、「嶋岡礼蔵」(五十七歳)が、
「大治郎。こたびは、おぬしにわしの、死に水をとってもらわねばならぬ」 (P69)
と訪ねてくる。
嶋岡礼蔵は、〔無外流〕の辻平右衛門直正が「麹町九丁目」に道場を開いていた
ときの門人の一人である。
この、辻平右衛門の門人の中で〔竜虎〕だとか〔双璧〕だとか評判された二人が、 秋山小兵衛と嶋岡礼蔵なのである。 辻平右衛門は、小兵衛が三十歳、礼蔵が二十七歳の折に、何をおもったのかして、 「両人とも、これよりは、おもうままに生きよ」 といい、ひとり飄然として江戸を去り、山城の国・愛宕郡・大原の里へ引きこもっ てしまった。平右衛門には妻子はなかった。 秋山小兵衛は江戸に残った。 嶋岡礼蔵は、師・平右衛門につきそい、大原の里へ向った。 (P71)
この時、もちろん、大治郎は生まれていない。
しかし、大治郎は、十五歳の夏、小兵衛によって山城にいる辻平右衛門(七十歳)
のもとに送り出されている。
「平右衛門先生が、お前を見て、江戸へもどれといわれたなら、おとなしゅう、 もど ってまいれ」 (P73)
大治郎は、平右衛門から「江戸へもどれ」とは言われなかったようだ。
やはり、小兵衛の「仕つけ」がものをいったようである。
この後、老師・平右衛門が病没するまでの五年間、大治郎は山城で修行を続ける。
平右衛門の傍には、依然として嶋岡礼蔵がつかえてい、大治郎は礼蔵に、 〔第二の師〕 としてつかえ、山ふかい大原における五年間の修行を終えたので あった。 (P73~74)
この「嶋岡礼蔵」が、訪ねてきたのである。
師・嶋岡礼蔵を風呂に入れ、背中をながしたあと、大治郎は、礼蔵のために食事の
用意をする。
田螺汁が、まだ残っていた。 それをあたため、麦飯を新たにたき、大治郎は礼蔵をもてなしつ つ、打ち合わせをす ませた。 (P78)
この日は、酒は出なかったようである。