''『蛤飯(はまぐりめし)』''
『蛤飯(はまぐりめし)』
この料理は、第五話「雨の鈴鹿川」に出てくる。
嶋岡礼蔵の遺髪を、大和の国・磯城郡・芝村にある礼蔵の実家に届けた大治郎は、
芝村から山城の愛宕郡・大原の里を訪ねた後、江戸への帰途に着く。
そして、途中、関の宿を発ってまもなく、「井上八郎」と出会うことになる。
浪人の名を井上八郎という。 近江・彦根の浪人で、大治郎が大原の里に住む老師・辻平右衛門 のもとで修行には げんでいたころ、井上は京都に住んでい、月のうち十日ほどは大原にあらわれ、亡き 嶋岡礼蔵と二人きりで昼夜打ち通しの稽古をやっていたりしたも のだ。 当時、井上八郎は四十前後であったようだから、いまは五十に近いはずだ。 (P216)
桑名まで行くという井上八郎に、大治郎も同道することになる。
同行の途中、大治郎は、井上八郎が、かつて多大な恩を受けた上司の息子・後藤
伊織(仇討ちの追っ手がかかっている)の救援・助勢のために、桑名に向って
いることを聞かされる。
後藤伊織がかくまわれている油問屋〔平野屋〕で八郎とともに訪れた大治郎たちに、
ふるまわれたのが、「蛤飯」なのである。
そこまで、伊織が語り終えたとき、桑名の名産・蛤を炊きこんだ 飯がはこばれてき た。 産卵期に入った蛤は味も落ちるそうだし、採るのを禁じられてもいるが、これは春 先に採っておいて煮しめたものをつかったのだと、平野屋宗平が説明した。 その蛤飯を食べ終えてから、 「実は、井上さん…」 と、秋山大治郎が、しずかに口をきった。 「いままで、だまっていたのですが、どうも私は昨夜から今日に かけて、 後藤伊織殿をつけねらっている、その天野なにがしの弟と、妻女 を見かけた ようにおもいます」 「な、なんだと…」 井上八郎は瞠目した。 伊織の顔から見る見る血の気が引いていった。 (P233~234)