''『膳の研究(食事の情景)』''
『膳の研究(食事の情景)』
池波正太郎の本に、『わたしの旅』(講談社文庫)というのがある。
いろいろなテーマを取り上げてのエッセイ集なのだが、その中の
《時代小説の食べ物》
というテーマのエッセイの中に、こういう記述がある。
つまり、小説中の人物に西瓜を食べさせることによって、元禄初年の時代も書きあらわすことができるわけだ。 日本諸国に戦火が絶え、徳川幕府による天下統一が成ってから、 七、八十年が経過し、ようやくに、町民たちも西瓜のような嗜好食品を口にするだけのゆとりができたということなのである。 この少し前から、浅草の金竜山・浅草寺の門前町で〔奈良茶めし〕を食べさせる茶店が何軒も出来ている。 これは、茶飯にとうふ汁、煮しめなどをつけて客をよんだもので、これが大評判となった。 現代なら何のことはないのだが、そのころ以前の日本の人たちは家庭における食事以外、外を出歩いてものを食べることがなかったといってよい。 その食事も、一日に二食であった。 というのも、夜の闇が下りれば、灯りをつけねばならぬ。その灯油やらろうそくやらが非常に高価なもので、よほどの金もちでないかぎり、 「暗くなればねむる。そして朝早く起きる」 というのが、一般の習慣であった。 (P234~235)
長い引用になってしまったが、
- 庶民が西瓜などを食するというゆとりができてきたのは、 江戸時代も、
元禄の時代ころからであるということ。 - また、客に食事を提供する店ができてきたりするのも、その頃だったらしい
ということが分かる。
働いて得た賃金で衣食住をまかない、たまには西瓜のような嗜好品を買うゆとり
(経済力)も出来てきた、ということだろう。
ただし、「茶飯にとうふ汁、煮しめなどをつけて客をよんだもので、これが
大評判となった。」とあることからしても、この当時の江戸の町の人々の毎日の
食事は、かなり質素なものだったのではないかと思われる。
江戸の町の人々の暮らしが、もう少し向上していくには、さらに時代を経て、
日本の国の様々な生産力が伸びていかなくてはならない。
私は、この時代、食事が二食だったということに、逆に心が惹かれる。
昔は、生産力の関係で「灯油」やら「ろうそく」などが高価なものだったから
ということだが、
「暗くなればねむる。そして朝早く起きる」
というのは、何か利にかなったことのような気がするからだ。
庶民だけでなく、武士の世界でも、その暮らしぶりは質素であったことも書か
れている。
江戸時代の武家よりも、むしろ町人のほうがぜいたくなものを口に入れていたようだ。 ことに元禄時代以後は、金銀が大都会の富商たちへあつまってしまい、体裁は大きくとも、多くのさむらいたちは実に質素な日常生活を送っていたようにおもわれる。 近江・膳所六万石、本多家の重役の一人が、夕飯の膳についた食物を書きのこしているが、 大根のなます。 しいたけと、とうふの煮物。 香の物に吸い物。 と、たったこれだけである。 (P238~239)
六万石の藩の重役の夕飯の膳としては、まさに質素そのものである。
私は、「池波正太郎の小説の中に出てくる食べ物」について調べて
みたいと考えている。
- 江戸時代の人々が、どのような食事を膳に上らせていたのか、つまりメニューを
知りたいというのが一つ。 - 時代とともに、メニューはどのように変わっていくのかも知りたい。
- 経済の発展で、どのようにメニューが増えていくのか。
- もう一つは、江戸時代の人々の食事、暮らしぶりを知ることを通して、「飽食の時代」
と呼ばれて久しい現代日本、その中で生きている私自身の暮らしのあり方という
ものを、見つめ直してみたいとも考えている。
贅沢な中で生きていたのでは、贅沢な生き方・作法しか身につけることができない。
ものの有り余っている中で生きている今の日本人が幸せだとは、私は思わない。
今の日本人が失ってしまった何かを、江戸時代の人々の食事と暮らしぶりを
知ることを通して確かめていってみたいと思う。
『鬼平犯科帳』と『剣客商売』をざっと比べると、『剣客商売』の方が様々な
食べ物の記述が出てくる。
まずは、『剣客商売一』に出てくる食べ物の記述を通して、当時の人々の暮らし
ぶり、そこに見られる人々の考え方といったものを調べてみたいと思う。