''『根深汁(ねぎの味噌汁)と大根の漬物と麦飯』''
『根深汁(ねぎの味噌汁)と大根の漬物と麦飯』
『鬼平犯科帳』と『剣客商売』をざっと比べると、『剣客商売』の方が様々な
食べ物の記述が出てくることはトップページで書いた。
ここからは、『剣客商売一』に出てくる食べ物の記述を通して、当時の人々の
暮らしぶり、そこに見られる人々の考え方といったものを調べてみたいと思う。
「根深汁(ねぎの味噌汁)と大根の漬物と麦飯」は、『剣客商売一』の「女武芸者」
の冒頭で出てくる食べ物である。
台所から根深汁(ねぎの味噌汁)のにおいがただよってきている。 このところ朝も夕も、根深汁に大根の漬物だけで食事をしながら、彼は暮らしていた。 若者の名を、秋山大治郎という。 荒川が大川(隅田川)に変わって、その流れを転じようとする浅草の外れの、真崎稲荷明神社に近い木立の中へ、秋山大治郎が無外流の剣術道場をかまえてから、そろそろ半年になろうか。…(中略)… 根深汁で飯を食べはじめた彼の両眼は童子のごとく無邪気なものであって、ふとやかな鼻はたのしげに汁のにおいを嗅ぎ、厚い唇はたきあがったばかりの麦飯をうけいれることに専念しきっているかのようだ。 (P1~2)
秋山小兵衛の一子・秋山大治郎は、24歳。
安永六年(1777年)の「初冬」という設定になっている。
元禄時代(1688.9.30 ~1704.3.13)からは、70年以上が過ぎていることになる。
大治郎について、まとめておく。
大治郎は、大治郎が十五歳の夏に、山城の国・愛宕郡・大原の里に
修行に出ている。
そして、秋山小兵衛の無外流の師・辻平右衛門のもとで、五年間の修行を続
けている。
老師・辻平右衛門の病死により、二十歳になった大治郎は、一度、江戸に戻るが、
すぐにまた、父のもとをはなれ、四年間、「遠国」をまわって修行を積んでき
ている。
そして、四年の所業の後、この年、安永六年(1777年)の二月末に、江戸に
戻ってきている。
夏になって、「浜町の田沼家・中屋敷(別邸)」でおこなわれた
剣術の試合
に参加。見事な成績を収め、江戸の剣術界へのデビューをはたしている。
そして、今は、「初冬」ということなのである。
秋山大治郎が住む無外流の剣術道場・兼住まいは、父の秋山小兵衛の援助によ
って建てられた。
新築ではなく、改築のようだ(P99)。
「道場をたててやったのだから、これからは、お前一人でやれ」(P66)
というわけで、その他、金の援助などはない。
弟子はまだ一人もいない。
というわけで、普通に考えれば、「貧しい」(P18)のである。
そんな状況にある彼の食事が、「根深汁」と「大根の漬物」と「麦飯」のみ
なのである。
これも、まさに質素そのものである。
おいおい明らかになっていくが、しかし、この食事には、「貧しさ」はない。
ここに、私は、魅力を感じる。
大治郎の生きざまにである。