''『味噌汁(のにおい)』''
『味噌汁(のにおい)』
大治郎暗殺の決行が明日に決まったことを、牛堀九万之助から聞かされた小兵衛が、
大治郎宅を訪ねる。
秋山大治郎は父・秋山小兵衛を迎えたとき、井戸端で水を浴びていた。 台所で味噌汁のにおいがしている。 (P286)
小兵衛は大治郎にいくつか質問をしたのみで立ち去っていく。
「いや、別に……」 いいさして、小兵衛は黙りこみ、空を見上げた。何やら一心におもいつめて いるようであった。このような父の姿を、大治郎はかつて見たことがない。 「父上……」 「あの、な……」 「はい?」 「いや……なんでもない。よし、よし。わかった、わかった」 踵を返し、小兵衛が立ち去って行った。足どりが何かもつれるように見えた。 大治郎は、むしろ茫然と、これを見送ったのみである。 (いったい、父上はどうなされたのか……)》 わからぬ。いかに考えてみても、わからなかった。 いっぽう秋山小兵衛は、どこをどう歩いたて来たものか、よくおぼえていない。 気がつくと、浅草寺境内の休み茶屋の腰掛にぼんやりとかけていたのである。 内山と三浦の大治郎襲撃は、明夜だという。 (いまからでも、遅くはない……) のだ。 自分が手を貸してやらずとも、明日の襲撃のことを大治郎に告げてやれば、 大治郎 のこころ構えもちがってくる…。迎え撃つための手段をめぐらしてお けば、よもや不覚 をとるまい。 だが、ついに告げてやらなかった。 (大治郎は、おのれ一人のちからにて、切りぬけるべきである) この剣客としての信念から告げなかったのだとすれば、それは父 としての愛 から発したものなのか……それとも、小兵衛の衒いから出たものか、老骨の 依怙地からなのか……。 もう自分で自分が、わからなくなってしまい、小兵衛は茶代を置くと、またしても 歩き出した。 (P287~P288)
息子・大治郎の生死をめぐって、小兵衛が苦悩を続ける場面なのであるが、
小兵衛が、父親としてこのような姿を見せるのは、『剣客商売』の中でも
たいへんめずらしい。